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2014年6月

読み書き、そろばん

現代語での「ヨム」は、本や雑誌等の「文字(文章)を読む」ことを指す。したがって、一般的に「読み書きそろばん」とは、「文字を読んで、書いて、計算する」という解釈になる。

しかし、昭和前期に発行された『日本方言大辞典』によれば、「ヨムとは数エル意味を含んでいる」と記載されている。つまり、県によって「数える」ことを「読む」と解釈している。 (紙を読む→紙を数える)

その県とは南西諸島・香川・徳島・高知(一部)・愛媛(一部)・兵庫・奈良・石川・富山であるが、地図を見ると一本の線上に並ぶ。これは海上文化の影響だと思われる。

また、万葉集の中で「カク」は、「絵を画く」という一例はあるが、「文字を書く」という例は、歌には出てこない。したがって、「ヨミ・カキ」とは、漢字が伝来し、そ れを使いこなす前に、数に対応して古くからあった言葉となる。

後世「読み書き、そろばん」という基礎能力は、無文字の時代から存在した「数の能力」ということになる。

「数を数えて 式に書いて 計算する」 これが 歴史的な「読み書き、そろばん」である。

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真理の追究

珠算指導一筋、35年が過ぎ、同時に講師歴(さんさん教育~SSKCLUB)も20年が過ぎた。

授業も講習も同じカテゴリーに入るが、講習は原則1回限りと心得ているので、完璧に終わるように努めている。

しかし、いくら自分で完璧だと思っても、受講者が理解しなければ、その講話は不作となってしまう。そこで、「わかりにくいことはアッサリと、わかりやすいことはジックリと話す」 、このバランスこそが、実は講話のなかでは非常に大切である。

珠算は「そろばん」を使った計算であるが故に、法則と図解の意味を理解できれば、計算ができるようになっている。

しかし、SSKCLUBの教育は、教材にそれぞれ算数理論が含まれているので、この理論を習得しなければならない。これが外部の先生から「難しい教育」と言われている点であるが、それは大きな誤解である。

法則と図解、就学時期、時間の要因で従来の学習法では理解できない子どもが沢山いる中、幼児や1年生でもスムーズに学習できる(定説の逆)のは、「論理の真理」を理解しているからである。

つまり、「子どもが算数もそろばんも自然にできるようになる」のは、子どもが「優しい教育」と思えるからである。

一番ダメなのは珠算の先生がそれに気が付いてない点である。

現代のようにネットワークで占められている社会では、印象だけでイメージが作られてしまう傾向がある。それに振り回されると、「真理の追究」は永久にできなくなってしまうのだ。

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新化しなければアウト

珠算教育の課題は、「クリエイティブな発想がないこと」である。

教材にしても「計算範囲」から外れられない。「フラッシュ暗算」も暗算の形体が変わっただけで、基本的には「暗算」に変わりは無い。

新たな展開を望むなら、技術より発想が重要だが、発想といってもアイディアは短命だし、ゲーム性や面白さが前面に出れば、これが果たして社会の為に役に立つ教育であるかどうかは後回しとなる。

教育者である以上、新しいカテゴリーの珠算に生まれ変わることを望むなら、教育の概念を崩さずして新しいものを作らなくてはならない。

あと、2週間で全国大会となるが、漸く「やる気モード全開」となった。

今、『テキスト』の表紙が進化しているが、全国大会を機に新しく「クリアファイル」も発売することになった。

SSKCLUBは、誰でも入会できる体制をとっている。長年研究を重ねて作ったものだから、組織や細かい制度のごたごたで、児童に迷惑をかけることだけは避けたい。

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検定試験

『メートルものがたり』・『メートルワールド』は、「単位の換算」が主なので、「概数」については学習しない。(概数は『ABACUS10B』を中心に学習が始まる)

もともと「長さ」と「かさ」のような連続量に、誤差はつきものである。ところが、3級の検定試験になると、この誤差は「端数処理」に置き換えられてしまう。つまり、本来の概数の柱である誤差が検定の制度によって書き換えられてしまうということだ。

検定の合格と不合格は、いわばコントラストだけが浮き彫りとなり、日頃の学習は検定試験に縛られるということだ。

世間では合格は「りっぱ」「凄い」となるが、教えている側から見れば、正直「ラッキー」「大差なし」という感覚も持ち合わせている。

検定試験に振り回されると、毎日の授業が制度化され、先に述べた「誤差」と同様に、算数の大事な要素がどんどん削ぎ落ちていく。

これが最終的には簡素化された授業と化す。

子どもが一人ひとり違うように、学習はゆるい制度があってもよいと思う。制度を強化することで、子どもの思考力を阻止しているならば、それは教育とは言わない!

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「ナリ・ナル」の意味

読み上げ算は、言葉による計算方法であるが、「350円ナリ」の「ナリ」とは一体何だろうか?

「ナル」は元々神語で、「風にナル」「仏にナル」というように使われていた。

「千の風になって」という歌の歌詞も、「私は、風になっています。光になっています。星になっています。」とあり、これは、自然神の存在を色濃く表現している。

また、「ナル」は、「大人にナリ、老人にナリ・・・」というように、人生の終止的な意味から「できあがる・さだまる・ととのう・みのる・おわる」という解釈もある。

したがって、読み上げ算は、神を大切にしていた頃の「ナリ・ナル」という言葉を数字に付けて現代まで受け継がれている、云わば歴史的にも大変価値ある言葉である。

現代語では「成り行き任せ」のような意味合いが強い「ナリ・ナル」だが、本来は、このような歴史的背景があることを認識することも重要なことである。

悟り(サトリ)を開いて、悟る(サトル)  これも仏教語に関わる名前である!

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原始日本語

人類は猿から進化して2足歩行となり、手が自由に使えるようになった。同時に顎の骨格も発達し、言葉を使えるようになった。(チンパンジーは、人間と骨格が違うので、どんなに訓練しても言葉は話せない。)

古代の生活は、現代社会と比較できないほど過酷であったことは既知であるが、特に「食べること」は、人類の永遠の課題であった。

故に、弥生時代に始まった「稲作」は、神が与えた恩恵だと思うのは、むしろ自然の摂理であろう。当然ながら、稲に対する感謝の気持ちは、現代言葉としても受け継がれている。

例えば、顔の名称である目は、稲の芽、歯は葉、鼻は花(顔の中央に位置する)、耳(みみ)は実、そして、頬(ほほ)は穂から付けられている。(二つあるものは原則として名称を繰り返す。目は「めめ」が正しい)

このように考えると、毎日何気なく使っている単語も、実はそのルーツと意味があり、幼児に『数&文字』を教える場合、この意味をしっかり教えることが、歴史的背景からも重要だということが納得できるのではなかろうか。

ややもすれば我々珠算人は、「珠算は、文化と歴史がある。」と口にするが、指導者がこの意味を知らないで、技術だけを伝達するとなれば、何れ珠算は退化していくと思われる。

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文字と数

6月15日(日)の茨城県本部講習会が終わり、これで今期の講習会も全日程を無事終了することができた。

毎回、一所懸命にやっているが、今回は体調が芳しくなかったので、余計に心諭す内容であったことは、参加された先生方にはお分かり頂けたのではないだろうか。

さて、茨城県の講習内容について触れるが、「読み・書き・そろばん」という3つのキーワードは、それぞれ独立しているように思いがちだが、幼児教育は、この3つが一体化していないと非常にまずいのである。これは幼児を指導した経験がある先生ならば、誰しもが感じていることだと思う。

今回の文字は新ネタを披露した。

「原始日本語」

これは、動物の名前は鳴き声からついたものが多い。猫は「ニャンコ」・犬は「ワンコ」・ひよこは「ぴよこ」と呼んでいた。このように考えると、濁音や半濁音を読むことは非常に重要である。

また、「くだもの」場合、「く」は「木」、「だ」は「の」という意味から「木のもの」と解釈できる。同様に、「けだもの」は「毛のもの」となる。

『古事記』や『日本書紀』は、日本最古の書物とされているが、会話は本来人間が生活を営む段階から存在している。したがってこのような事象諸々が書物になるのである。

自然の法則から述べるなら、「書く」前に「読む」ことをしっかり学習させることが非常に大切である。つまり、数(かず)は「犬が5ひき」「りんごが5こ」というように、必ず具体物から派生している。このように考えると、「読み・書き」の学習は、幼児教育の要となる重要な内容である。

SSKCLUBの『KIDS』『文字』は、幼児言葉を脱却させ、数概念(数観念)を獲得させる上で、無くてはならない必修のテキストだと認識してほしい。

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