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競技大会

ソーンダイク(米国)は、1922年の『算数の心理学』において、「たし算の筆算は位を揃えて数を書くこと、同じ位の数をたすこと、たし算と同じ位の数のみをその位に書くこと、等といったきまりを学習することで、与えられた問題(刺激)に対して、答え(反応)が得られる。また、教師はこの点を十分に考慮して、刺激と反応を正しく結びつける学習をさせなければならない。つまり適切な計算ドリルと練習を十分な時間をかけて与えることが大切である。」と述べている。

日本の算数教育は、アメリカの教育からいつも10年遅れで「学習指導要領」へ取り入れられていることから、日本の算数教育にもソーンダイクの「計算ドリルと練習の時代」があったことが裏付けられる。この時代背景から珠算教育も必然的に「競技大会」「検定試験」重視になったことは、歴史上自然であると思われる。(珠算ブーム)

競技大会については、『珠算の競技会』(暁出版)全珠連編集(昭和55年発行 岡 保著)がある。その中で、「選手の要項」という内容が記載されているので紹介してみる。

珠算学習者の総てが選手になれるものでもなく、多数の学習者の中から要件を持ち合わせる者を、どのように育成していくかが課題となる。いくら根性があっても素質がなければお話にならない。逆に少し根性に欠ける者でも、素質があれば指導により根性をつけさせることも可能と考える。要は学習者の素質を早く見抜き、時期を逃さず、如何にやる気を起こさせるかが指導者として大切なことではないだろうか。(中略)優秀な選手を育成するためには、その選手指導の何倍もの労力を注ぎ込む指導者としての気概を必要とするものである。

この「競技会」については、珠算指導者の中には賛否両論があると思うが、時代背景が違っていることをふまえると、この「根性論」は、現代では教育錯誤にほかならない。

前回掲載した和田秀樹氏も「才能が必要な習い事は無理にさせない。子どもにものを教える際に大事なのは、やっていると上手くなるという感覚を持たせるかどうかだ。習い事は上手くならないとイヤになる。そろばんは誰がやっても上手くなる。」と述べている。

以上のことから「よくできる子どもが、猛練習してそろばんの達人になる」より、「普通の子が、普通に学んで普通に上手くなる」ことを追求した方が、珠算教育は公に広まると思う。さらに「算数に困っている子どもが、普通にそろばんを学んで、普通に算数ができる」ようになれば、珠算は普遍的で社会性の高い教育になれると思う。

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